外野の評価って気になっちゃうよね

明日は初めての研究室訪問の日。うちの研究室にはあんまりそういうお客さんが来ないので、どういう感じになるのかがよく分からないのだけど、とにかく聞くべきことは聞かないと。個人的には気になるのは、

  1. 先生の人柄
  2. 研究室の設備
  3. 今までの他大学生の受け入れ状況

先生の人柄は重要だと思う。とにかく師匠と仰げるような人を見つけたい。今の研究室の先生は人柄が物凄い良く(逆に、威厳を感じないが・・・w)、それ故にここまでスムーズに研究させてもらっているという感じがある。新しい環境に入るにあたり頼れる人がいないと辛いと思うし、大学院生活はこれで決まっちゃいそう。研究室の設備は、とりあえず今のところより良ければいい。今までの他大学生の受け入れ状況は、聞いてもどうしようもないけども、とりあえず確認しておきたい。他にも研究について聞くべきことがありそうだけど、ハッキリ言って大枠さえ合っていれば、ちょっとの研究テーマのズレなんて別に問題ないと思っている。僕の場合、大枠とはWebマイニング。まあ、自分のやりたい事(明白にはないけども)との合致度は、明日行けば分かるだろう。

さて、id:next49さんのブログd:id:next49人気エントリーの1つ、『価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない』を見て、「あ、俺じゃん」とか思った。卒論に苦しんでるとかそういうところというよりは、周りの評価至上主義なところが、まさに俺。多分、多くの人が当てはまることなのだとも思う。こういう思想になってる原因をシンプルかついい加減に言うと、学校教育ってなりそうだけども、僕は自分自身がそうなっている原因は、親の教育だと思っている。教育というか、叱り方というのかな。僕が高校の時、進路決定で悩んだ挙句、スポーツトレーナーになりたいと親にマジメに言ったことがある。結局1ヶ月くらいで進路変更して今の大学に行くことになったのだけど。それ以来、僕の意思決定にイチャモンをつける時には必ずこの話題を持ち出すようになった。これが原因で、僕の今は「間違った意思決定は絶対にしちゃいけない」ということで頭がいっぱいで、常に周りが正しいという判断を求めて意思決定してるように思う。
研究をしていてもそう。研究題材を探す際は、自分が面白いと思う以前に、先生が認めてくれそうなことを探している気がしてしょうがない。または、先生が認めてくれなさそうなものはやる価値がないとか思っているような気がする。先生が認めてくれることは、研究を進めるには大きな力になるけど、良いと思う意思決定の基準を「先生が認めてくれる」から「自分が面白いと思う」にシフトすべきだよなと思う。多分、研究にならないような物が積み重なっていくと思うけど。

余談

7と嘘吐きオンライン 前編 - 読解アヘンが面白かった。Twitterは研究とか開発関係の人ばかりフォローしちゃったけど、友人とか同世代の人ともフォロー出来たらもっと楽しいのかな。とりあえず、うちの大学名で検索してみるw